『ニューヨーク1997』『エスケープ・フロム・L.A.』

『NY』
 全域が脱出不可能の監獄と化したNYへ大統領専用機が墜落する。そこへ伝説のアウトロー、スネーク・プリスケン(カート・ラッセル)が囚人としてやってくる。スネークは罪の免赦を条件に大統領救出を依頼され単身NYへ乗り込むこととなる。タイム・リミットは24時間。時間になると血管を破壊してしまう物質を打ち込まれ、リミット・オーバーはイコール、死を意味する。スネークは悪の巣窟と化したNYから無事大統領を救出できるのか。

『LA』
 大地震によりアメリカ大陸から分断されたLA。そこは脱出不可能の監獄と化していた。そのLAに大統領の娘がある重要な装置を盗み出し潜り込んでしまう。彼女を誘導したとみられるのはLAで最大の勢力を持つ集団のトップに君臨する男。男はその装置を楯に全囚人の解放を要求していた。
 そこへ伝説のアウトロー、スネーク・プリスケン(カート・ラッセル)がやってくる。囚人として。装置の奪回を依頼されるスネーク。拒むことはできない。交渉の前から彼には特殊なウイルスがそれとなく注入されていたのだ。数時間で死に至るウイルス。解毒剤は装置を取り戻さなければ手に入らない。リミットは約8時間。スネークは無事装置を回収することができるのか。

 とまあこんな具合に、同じようなお話なのである。リメイクだとかセルフ・パロディだとかいう話もあるようでそれも納得。それにしてもこれだけ骨格の同じ話を連続して観るのはいかがなものですか、と思われる方もいらっしゃるでしょうし、実際僕も(普通ならば)そう思うのだけど、今回はこれで正解。鍵は、記憶力とセルフ・パロディにある。そう、僕はあまり記憶がよろしくない。あまりというか全然なのだけど。そこが重要なポイントなのである。そしてセルフ・パロディ。セルフ・パロディなのだから当然のように同じような話なのだけど、それでもまったくまるきし同じではもちろんない。当たり前だけど。時間的には繋がっているし、NYからLAに舞台が変わっているし、CGもだいぶ豪華になっている(それでも安っぽいのはさすが)。救出対象も大統領から大統領の大事な装置に変わっている。でもこの場合違うところはどうでもよくてニ作の同じところを中心に観るべきだろうというか僕はそうしたというか結果的にそうなった。あ、ここが同じだ。ああ、これも観たな。あああ、これとあれが同じような役割なのね。とかそういう風に。でそういう観方をするのにはどうしたって前の映画(この場合『NY』)の情報を憶えている必要がある。さらに楽しく観るには細部までこと細かく憶えていたほうがいい。記憶力が必要。つまりそういうことなのだ(どういうことなんでしょうか)。それがない僕は続けざまに観るに限るのである。そうでないとさほど楽しめなかったかもしれない。
 特に印象的な場面に、スネークが倒れた椅子を直して座り一息つく、というシーンがある。これ、一作だけを観ると特になんてことない情景なのだが二作続けて観ると思わずニヤリとしてしまう。舞台も時間も違うのに、その前後の状況、映画的な時間がほぼ同じなのだ。先の映画をくっきり憶えているからこそのニヤリが生じるのである。やりやがったな、と。
 そして同じ要素に注目することによって必然的にその違いも浮き彫りになる。浮き彫りになる、とか云っているけどそんなたいそうなものではない。違うところは潔くアホらしく違うのだから。『NY』から『LA』へと舞台が変わり、スネークが巻き込まれる事態もやはり変化する。その変化はとても「LA」らしいものであった。バスケットボールとサーフィンをするスネーク。なぜなら「LA」だから。その安直さは一体なんだ。ひねりというものが一切ない美学(美学なんだろうか)。ついで云うなら説明もないぞ(余計な説明、あるいは必要な説明。伝説のアウトローと呼ばれるスネークの過去。絶対掴まらない、と云われているはずなのになぜか掴まっているスネーク。なぜルームランナーで走らなければならないのか。など)。かの剛球一直線、藤村甲子園*1を髣髴とさせる徹底したストレート真っ向勝負ズバーン!!。それを嬉々として受け止める君らはさしずめ豆タン*2だ。ほら、「はいな、あんさん」と云ってごらん。

ニューヨーク1997 [DVD]  エスケープ フロム L.A. [DVD]

*1:原作:佐々木守、絵:水島 新司による漫画『男どアホウ甲子園』の主人公。変化球を投げず最速162キロの直球で押しまくるどアホウ。

*2:『男どアホウ甲子園』のキャラクター。藤村甲子園の相棒キャッチャー。